インタビュー⑤

水野幸代子

いざ働き始めてみると、こんなに楽しい仕事はない

【常務取締役】

子育てしながらできる仕事は何でもやった!

こんにちは、水野です。
いまでこそ常務としてわが社で大きな責任を背負うようになりましたが、私も最初は介護業界のことを何も知らない素人でした。
今回は、私がこの業界に出会うまでの話をさせていただければと思います。

みなさんは高校生のころ、どんな夢を抱いていたでしょうか。

私の夢は、20歳まで素敵な旦那さんを見つけて専業主婦になること。
高校を卒業後に警察共済組合の職員として働き始めたのも、じつは職場結婚が目当てでした(笑)

10代でお嫁さんになる夢は叶わなかったものの、21歳で現在の旦那と結婚して寿退社をしました。
結婚した当初は、もともとの狙い通り、家事をやりつつのんびり遊んで暮らしていました。

しかし、そんな生活は2か月で飽きます。

3か月目には外に出たくなり、警察共済組合に紹介してもらって免許センターでパートの事務員として働き始めました。
ただ、一日中PCで入力作業するのは性に合わなかったようです。

結局、耐えらなくなってすぐに辞め、次は自分で探してスポーツクラブの正社員になりました。

その後、長男の出産を挟んで、さまざまな仕事を経験しました。
職種は問わず、条件は子どもが幼稚園に行っている時間に働けることだけ。
スピード現像が売りだった写真店チェーン、パン屋さん、レストラン、デパートのお歳暮コーナー……。

なかでも印象に残っているのは写真店でしょうか。
パートのリーダー的なポジションを任されて頑張っていたら、店の売上も面白いように伸びました。

それまでは家にいることが退屈で働きに出ていただけでしたが、このときはじめて働く楽しさを知った気がします。

29歳のとき二人目の子を妊娠して、いったん2人の子育てに専念しました(働くことが楽しくて、家で夜中に内職はしていましたが……)。

また外に出ようと思ったのは、2人目が幼稚園に入ったときです。
時間に多少の余裕ができたため、主婦でもできそうな仕事を求人誌で探しました。

そのとき目に入ったのは「1時間1600円。週何日、1日何時間でもOK」という文字。
職種を見ると、「訪問介護のヘルパー募集」と書いてありました。

私がヘルパーという仕事の存在を知ったのは、じつはこのときが初めて。
そこから私と介護業界の長いお付き合いが始まったのです。

子育て主婦なら、ヘルパーの仕事は楽勝

もともと職種にこだわりはなく、とにかく子どもが幼稚園に行っている間にサクッと稼ぎたかった私は、見た瞬間に応募を決めました。
ただ、ヘルパーとして働くには資格が必要でした(恥ずかしながら、最初はそんな基本的なことも知りませんでした……)。

当時、ヘルパー2級(現在の「介護職員初任者研修」)の資格は、1か月半ほどの研修で取れました。
私は迷うことなく研修を受け、資格証をもらう前に求人を出していた事業者に飛び込み、「もう来週には資格が取れます」といって雇ってもらいました。

これが18年前、2002年のことです。

いざ働き始めてみると、こんなに楽しい仕事はないと思いました。

じつは私は祖父母と遊んだ記憶がなく、それまではおじいちゃんこやおばあちゃんこの話を聞いても他人事にしか聞こえませんでした。
しかし、ヘルパーとしておじいちゃんおばあちゃんに接すると、こちらは仕事でやっているだけなのに、みなさん「ありがとう」「また来てね」と喜んでくださいます。

人にこれほど喜ばれる経験をしたのは初めてで、私もおじいちゃんおばあちゃんが大好きになりました。

ちなみに世間では介護の仕事は大変だと思われているようですが、それまでたくさんの仕事を経験してきた私に言わせると、難易度は低いほうです。

掃除、洗濯、料理は、主婦はいつも家でやっています。
おむつを替えるのも、子育て中は一日に何度もやりました。

他の仕事のように新しく覚えなくてはいけないことは少なく、「いつもやっていることをやってお金をもらえるなんて……」と申し訳なく思っていたくらいです。

このように介護の仕事にはやりがいを感じていましたが、問題は介護事業者や上司でした。

同じ地域で介護を支える仲間なので具体的な話は差し控えますが、事業者の新設が相次いだ時期で、体制が整っていないところが多く、私はさまざまな事情で事業者を転々とせざるを得ませんでした。

そうして私は友乃家に流れ着きます。

私の背中を押してくれたケアマネジャーさんの言葉

友乃家に来る前、私は別の介護事業者で働いていました。
じつはその事業者は、新たに立ち上げたばかりでした。

当時の私はまだ半年ほどしか介護の経験がありませんでしたが、他のヘルパーさんたちはほぼ未経験だったため、押し出されるようにして私が責任者の一人になりました。
責任者になると、自分もサービスに入りながら、他のヘルパーさんの同行や営業、さらに事務仕事もカバーしなければなりません。

そのこと自体は新しいチャレンジとして前向きに受け止めていました。
ただ、自分の頑張りがお給料に反映されない給与体系が辛かった。

その事業者だけではないのですが、当時の介護業界は「これをしたらいくら」というように、仕事によって報酬が決まっていました。
いっけん公平に見えますが、優秀な人が丁寧に仕事をしても、うまくできない人が適当にやっても、お給料は同じです。
私は人の何倍も頑張っている自負があったので、そうした給与体系が不満でした。

いったん不満を感じ始めると、歯車は悪い方向に回り始めます。

最初はいろいろな仕事に挑戦できて楽しいと思っていたのに、そのうち自分が仕事を抱え込みすぎていると感じるようになり、精神的に疲弊していきました。

そんな私を見かねて、ケアマネジャーのAさんがこんな言葉をかけてくれました。
「無理しないで、1回辞めてもいいのよ。あなたは介護が好きみたいだから、またいつか戻ってくればいい。そのときまでゆっくり休みなさい」

この言葉に背中を押されて、私は前の事務所を退職し、ガス会社の事務員として働き始めました。

こんどは9時5時で終わる仕事で、夜、子どもたちにごはんを食べさせた後にまた出勤するというような無茶をする必要はありません。
ストレスは少なく、体力的にもずっと楽です。

このままのんびり働くのもいいかも――。

1年ほど働いてそう思い始めていた矢先、前の事務所の社長から連絡が入りました(円満退社で、前職の社長とはいまも関係は良好です)。

前職の社長曰く、「Aさんが末期がんになった。水野さんに会いたがってるよ」とのこと。
ターミナルから戻ってきたAさんのもとにお見舞いに行くと、彼女はこう言いました。

「私、こんなふうになっちゃった。最期は水野さんに介護してもらいたいな……」

Aさんは私が前職で心が折れかけていたときサポートしてくれた恩人です。
もともと介護の仕事が天職だと思っていたこともあり、「戻るならいまだ」と復帰を決めました。

Aさんがいなければ、おそらくいま私はこの業界にいなかったでしょう。
いまはもう天国にいらっしゃいますが、あらためてお礼を申し上げたいと思います。

さて、復帰するにあたって真っ先に思い浮かんだのが友乃家でした。
じつは前職時に、弊社社長の三浦と前職の社長の会食に同席したことがあります。

そのとき三浦はライバル心を剥きだしにして、前職の社長をこう挑発していました。
「友乃家は職員をきちんと評価して、優秀な人はそれに見合う給料を出してます。うちのサービス提供責任者には、月35万円稼いでる人もいますよ。御社はどうですか?」

私は「失礼な人だな」と思いつつ(笑)、「そうだそうだ、もっと言ってやれ!」と内心で応援していました。

そのときの印象が強く、三浦に連絡を取って入社が決まったのです。
友乃家に入社するまでで、ずいぶん長くお話してしまいましたね。

このまま話を続けたいところですが、どうやら後がつかえている様子です。

いったんここで止めて、続きはまた次の機会にお話しします!